山田言

思いのままに綴ります。はい。

平等に対しての一方的な考察

※注意

この文章はタイトルの通り、平等というものの本質をある一方向から読み解こうとしたものです。ご注意ください。

 

はい。私です。

前置きなしにして早速話しましょう。

 

まず、平等というものがどのようなものなのか。

感じで平たく、等しいと書きます。つまりは過度な凹凸もなく、すべてが等しい状況と言えるでしょう。これは概念にも照らし合わされます。

 

平等は『視力が良い人も悪い人も変わらず裸眼で居ろ』と強要することではなく、『視力が良い人は裸眼で、悪い人はその視力に応じた眼鏡なりをつける』ことと言えるでしょう。

たしかに前者は状況こそ平等であるかもしれません。しかし、目が悪い人がいる、つまりハンディキャップを背負った人がいるという前提の条件を無視してしまえば、ハンディキャップのぶんその方が劣ってしまい、それでは等しいとは言えません。

 

真なる平等とはまさに最初に言ったように平たく、等しいこと。つまり変に抜きんでたものも落ちこぼれたものもいない状態のことを言うのです。

 

また、平等にするために秀でたものを劣ったものの位置まで下げようとする人もいます。

先ほどの例で表すなら、『視力の良い人が悪い人と同レベルの視力になるまで落とさせる』といった感じです。

 

たしかにそれは平等ですが、果たしてそれで幸せになる者がいるのでしょうか。

平等は停滞を起こすものであってはなりません。むしろ双方が幸せになれる、よりよい立場を作っていくことである方が望ましい。

ですから、視力の悪い人には眼鏡をつけさせ、視力の良い人と同レベルの視力にまでするのです。

レディースデイが羨ましいなら、それをなくすのではなく、メンズデイも作ればいい。

 

そうした「よりよい方向にもっていく姿勢」が重要なのであり、幸せを作り出すカギになるのではないでしょうか。

 

それでは。